「すいません、ナルトお願いしますね」

 すっかり酩酊状態に陥ってしまったナルトを何度も起こそうと試みたが、起きてはまた寝ようとする、の繰り返しで、とうとうイルカとサスケは客間に敷かれた布団の上にナルトを転がした。
眠りこけた大の男のなんと重いことか。
気持ち良さそうにしているナルトの顔を見ると無性に苛立って、サスケは軽くナルトの尻を蹴りつけたがナルトは全く微動だにしなかった。

「お前らも泊っていっていいんだぞ」
「いや、俺はいい」
「私も明日の医局の会議の資料作りがまだ残ってるので」

 イルカ宅を後にしたのは夜の10時を回ろうとしていた頃だった。日中は暖かだったが夜はまだ冷え込む。
サスケは両手を無造作にポケットに突っ込んで歩き始めた。


 住宅街の真ん中、新しく舗装された道路にはサスケとサクラ以外誰も何もいない。
並ぶ家々からは住人の気配はするものの、何故か音は漏れ聞こえて来ず、2人の足音、衣擦れの音だけが静かに鼓膜を震わせている。
 イルカ宅の廊下で意図せずではあるが立ち聞きをしてしまったサスケではあったが、サクラと出くわしたまさにその時にナルトとイルカが帰って来た為、そのまま有耶無耶になってしまったままだった。
今、この場所でそれを蒸し返していいのかも分からずに、ただサクラの歩調に合わせてゆっくりと足を動かす。
 隣を歩くサクラも何も言わずにまっすぐ前を見ていたが、やがてふと立ち止まった。
サスケは半歩先で歩みを止め振り返る。
サクラの頬は摂取したアルコールのせいか、それとも冷え始めている夜の空気のせいか僅かに赤く染まっていた。

「サスケくん、下忍の頃にカカシ先生に連れて行って貰った山桜の場所って覚えてる?」
「ああ」

 突然、思いもよらぬ問いかけにサスケは返事をするのがやっとだった。

「あそこって目隠しで行ったでしょ。
あの時は登ることに夢中で道を覚えられなくて、もし場所が分かるなら今から連れて行ってくれないかな?
無理にとは言わないけど」

 反するサクラの緑色の瞳は静かにサスケを見ている。サスケはその瞳を見て凪いだ夜の湖面を思い出した。

「いや、大丈夫だ」





それは夢のようにうつくしいしずかな朝






 見下ろす里の光景は10年前と変わらずに温かいままそこにあった。
温かいからこそ、サスケの胸はやはり10年前と同じように寂しさで締めつけられる。
 沢山の明かりが灯る中、自分の家屋敷の一角は周囲の森に溶け込むかのように暗い。
最後に家族に「おかえり」と言われたのはもうずいぶん前のことだ。
軽やかな母の笑顔、厳しい父の顔、そして、穏やかな兄の顔、順番に浮かんでは闇の空に消えていく。
 10年前に交わした、「来年もここで花見をしよう」という7班の約束は結局果たされることはなかった。
もうすぐ日が暮れようとしている時に響いた無邪気な少女の声がサスケの脳裏によみがえる。

 サクラはなぜここに誘ったのだろうか?

 サスケの心中に湧いた疑問に答えるようにサクラの口が開いた。

「あの日、ここから見た里の景色が大好きになった。
どこのお家の電気もあったかそうに灯っていて、明かりの下にはあたたかな家族がいて。
どこの家族も笑っていて。
あの時の私は幼かったから、明かりの下にはどこも家族がいるんだろうってそれが当然のことだと思ってた」

 彼女の笑い声は小さく乾いている。

「胸の奥はあの時みたいにあったかくなってる、それでも今は温かな明かりばかりじゃないって分かってる。
忍の厳しさなんて、あの頃は想像できなかった」

 ずっと夜景を見つめてサスケに横顔を見せていたサクラがサスケの方に向き直って静かに言った。

「ねえ、サスケくん、私たちはほんとうに遠くまで来ちゃったんだね」

 視線と視線が交差する。


 夜目のもとでもはっきりとわかる、サクラの肌の肌理の細かさ、白さ。
整えられた細い眉、薄く色をのせられたまぶた。翡翠の瞳を縁取る繊細な睫毛。
細い鼻筋、厚さはないが、整った淡い色のくちびる。
月の光を吸収して、彼女はほのかに光っているようだった。
サスケは息をするのも忘れ目の前の女を見つめていた。
視線を逸らすことなど、できなかった。


「サスケくん、私、本当に変わってしまったの。
16の時、初めて人を殺したわ。
任務の為じゃない、ただ自分を守る為だけにクナイを力任せに振り下ろした。
女に生まれた自分を大嫌いになったわ。私を傷つけた男を大嫌いになった。
でもね、私が女であるからこそ、男を簡単に殺せるんだって気づいたの」

 ナルトの懐から渡されたあの写真、あのサクラの表情がサスケの脳裏を掠める。
こちらを見つめるあのモノクロの女が目の前にいた。

「私はね、サスケくん、今はもう女でいることを楽しんでいるの。
間違っているとは思ってないし、これからもやり続ける。
だから、もう忘れて。
私のことは、わすれて」


 サクラはサスケをまっすぐに見据えたまま穏やかに微笑んでいる。
闇夜の中に浮かぶその姿はあまりにもはかなくて瞬きをした瞬間に溶けて消えてしまうのではないか。
途端にサスケの胸が息苦しさを訴え始める。正体の分からない焦りが生じる。
目の前にサクラはいるのに、その瞳は確かに自分を映しているのに、その存在は限りなく遠くにあるように感じる。


 サスケは目の前にいるはずのサクラの存在を確認しようと女の滑らかな頬に手を伸ばす。
サクラは静かに瞳を閉じ、首を傾げ、伸ばされた男の指先に応えようとする。


 静寂を引き裂く甲高い鳴き声がして、白い小鳥がサクラの肩に止まった。

「病院の呼び出しだわ、行かないと」


 触れることは、応えることは、叶わなかった。


「ありがとう、サスケくん。
私、今日のことは忘れない」



 ひとり残されたサスケの口元からは、空へと紫煙のか細い筋が伸びている。
 忘れろ、と言ったその口が、忘れない、と言う。

「残酷な女」

 サスケは先ほど伸ばしかけた掌を見つめてぼそりと呟いた。
息苦しさ、焦燥の正体はせつなさだった。




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