また、俺のそばから一人、仲間が離れていこうとしている。
彼女はきっと、忍をやめることになるだろう。

 彼女が救い出そうとしている少年も、その少年を一緒に助けると約束した少年も、今ここにはいない。
2人に対する強い気持ちが今までずっとその小さな背中を押して来たが、今回のことはその気持ちすら粉々に砕いてしまったに違いない。

 肉体だけでなく心の深い場所まで傷つけられた彼女の翠色の瞳は光の届かない深いところに沈み込んでしまっていた。

 俺がもっと早く助けてあげられていたなら、きっとこんなことになりはしなかった。
こんな気持ちになるのは、忍になってからもう何度目だろう。
過ぎてしまった出来事に、もしも、を考えるのは無意味だと知りつつも、それでも甘い妄念に囚われるのは止められない。


 雨の日は暗いものが心の深いところから溢れ出す。

 外から聞こえる雨の音は『バケツをひっくり返した』という表現がまさしくぴったりで、おかげで今日出立する里外任務は明日に順延となった。

 額あてを外し、ベストを脱ぐ。ぽっかりと空いた1日、さて何に使おうか。


 かつて仲間だった少女の顔を思い出す。俺の腕が貫いた大切な女の子。
あの瞬間、リンは痛みの衝撃で目を大きく見開いた後、ほんとうに、かすかに、かすかに、微笑んだ。


「だから女の子はいやなんだ」 


 面布の下でぼそりとつぶやくと玄関の呼び鈴が鳴った。
扉を開けるとサクラが立っている。傘を手にしておらず当然ながらびしょ濡れだった。

「急に来てごめんなさい」

 彼女の目線は下、自分の濡れたつま先をじっと見つめているせいでその表情は窺えない。

 冷たい。

 俺は掴んだ手を思わず放しそうになった。どれだけ外にいたんだろうか。
一瞬迷ったがその細い腕を必要以上に力を入れないように優しく引き、中に招き入れた。
掴んだ二の腕は3ヶ月前よりもか細く頼りないものになっていた。

 サクラは部屋を濡らすのが申し訳ないようで所在なげに玄関の三和土のところに立ち尽くしている。
脱衣所からタオルを持って来て差し出すと、素直に受け取り髪の毛の水分を拭き始めたので、俺は台所に行って湯を沸かし始めた。


「先生、今回はご迷惑をおかけして本当にすみませんでした」

 振り返るとサクラは台所の入り口で深く頭を垂れて、ここでもどんな顔をしているのかは分からない。

「教え子のピンチだったんだから当然でしょ。仲間を見捨てないのが木の葉の掟だ。
サクラが謝ることじゃないよ」

 薬缶から蒸気がしゅんしゅんと漏れ出して火を止める。
俺は流しにもたれかかってサクラをじっと見つめた。
サクラは頭を下げたまま動こうとせず、彼女の足元を見ると雫がぽと、ぽとり、と落ちている。


「忍、やめるの?」

 俺の投げかけに桜色の頭が勢いよく上がる。

「止めたくない」

 足元に落ちる雫はやはり涙だった。

「ナルトと一緒にサスケくんを連れ戻すって約束した」

 くしゃくしゃに顔を歪ませて僅かに首を左右に振る。

「なのに、また助けられた」

 青白い肌に桜色の髪がぴたりと貼り付いている。
決意の証、とずっと短く切り揃えられていた髪の毛が今では肩を通り越してしまっている。

「止めたくないから、もっと強くなりたいから、だから」

 緑色の瞳からは強い光が放たれている。


「だから ―――――――――――」


 深く考えもせずに、ただその光を求めて腕を伸ばしていた。
華奢なその体は頭のてっぺんから爪先まで、いたるところすべてが冷たかった。



「先生、私、先生のことが好きでこうなったわけじゃないです」

 隣に横たわるサクラは俺の顔をじっと見ながら言った。
間もなく決壊しそうだとばかりに涙が溜まっていたので、右手で優しく拭ってやる。
人差し指に乗った涙は人肌の温かさになっていて俺はほっとした。

「きっと、誰でも良かったの。
迷惑かけてごめんなさい」

 そんなこと言われなくても最初から分かってるよ。
喉元まで出かかった言葉に俺自身が驚く。
今、俺はこの子に何を言おうとしたのだろう。
俺は彼女の教師で、大人なのだと強く言い聞かせる。

「謝らなくていい、ただ力になりたいだけだ。
俺はね、サクラ、もう誰も俺の手の届かないところに行ってほしくないだけなんだよ。
お前が忍を続けてくれる、ナルトと一緒にサスケを取り戻そうと思ってるだけでいい。
それだけで俺はお前のために何だってしてあげるよ」

 嘘をつくときは多少の真実を織り交ぜるといい、とはよく言ったものだ。
 腕の中で本格的に泣き始めたこの子にだけは、今の俺の顔は見られたくなかった。


 俺は大人で、彼女は教え子なのだ。



 時々、ふらりと現れて短い逢瀬を交わす。
それは決まって雨の夜で、翌朝になるとサクラは帰って行った。
約束も甘い言葉も交わさない、2人の間の暗黙の了解がいつの間にか出来上がっていた。



 報告書を出した帰りにたまたま会ったナルトから呑みに誘われた。
サスケとサクラと3人でイルカ先生の新居に行ったのが楽しかったから、今度は俺と4人で呑みたいらしい。
時間が合えばね、とは便利な断り文句だ。相手に期待を持たせるが、けして傷つけはしない。

 上忍待機所に傘を取りに戻ろうかと思ったものの、ちょうど待機所と家との中間地点に差し掛かったのでそのまま濡れることにした。
だいぶ暖かくはなったが今日の雨は冷たくて重たい。
ほころび始めた道端の花が散らなければいい、とらしからぬ考えをした自分をつい笑ってしまう。

 アパートの外階段を登っていくと薄桃色の頭が見えた。
玄関ドアの前で膝を抱えて座っていたが俺に気付くと立ち上がる。

「鍵忘れたの?
もう大人なんだからそんなとこ座ってちゃだめでしょ」

 鍵を出そうと尻ポケットをまさぐったがない、念のため他のポケットもぱたぱたと触るがやはりない。
あ、さっき報告書を書いてた時に座るのに邪魔だったから、と取り出して机に置いたのを思い出す。


 ちゃりん


 サクラの手から俺の掌の上に裸の鍵を落とされる。
ああ、そういうことか、と俺は受け取った鍵を挿し回す。


「先生、私、ここに来るのは今日で最後にする」
「もう俺がいなくて大丈夫?」

 サクラは一瞬目を見開くと少し困ったようにはにかむ。

「意地悪な質問だった?」
「うん、先生がいなくなったら泣いちゃう」
「教師冥利に尽きるね、その一言」

 しばらくの間の後、ふと思い出したようにサクラが尋ねる。

「私があの時、先生のところに来たのは間違っていたのかな?」
「もし間違っていたのなら、その間違いを正さなかった俺が間違っていたってことだよ」

 あの時手を伸ばしたのは、きっと一緒に落ちて行ってもいいって思ったからだよ。
困らせるのは分かっているから口には出さない。

 俺は不安にさせないようににっこりと笑った。
サクラが明らかな安堵の表情を浮かべたのを見て、俺の今の表情は間違ってなかったんだなと嬉しくなる。
教師教え子以上、恋人未満な関係に今まさに終止符を打たれようとしているのに。
ああ、俺はつくづくこの子が特別なんだな。


「サクラ、あの時俺のとこに来たこと後悔してる?」
「ううん、私がくのいちを続けられてるのは、先生が傍にいてくれたからだよ」

 意気地なしな俺のささやかな抵抗に予想以上の答えが返って来て、それだけで俺は満足していた。

「そうか、優秀な特別上忍の将来を終わらせずに済んだか。
ならやっぱり間違っていなかったんだな」

 玄関ドアを開けて傘をサクラに差し出す。

「ありがとう、でも今日は濡れたいから」

 凛としたその表情、佇まいでこの子は大人になったのだと驚かされた。
ああ、この子は本当に綺麗になったな。

 歩き始めたサクラだが、階段の前でくるりと振り向いた。

「明日からもずっと私の先生でいてね、先生」

 そう言って手を振りながら階段を降りて行った。



 その姿が見えなくなるまで手を振り返していた俺は部屋に入り、ドアにもたれかかって大きなため息をついた。



 名前を呼ばせなくて良かった。
呼ばせていたらきっと、こんなにも物分かりのいい大人を演じることなんて出来なかっただろう。





それは決まって雨の夜で
サスサクの次にカカサクが好きです。
情けない大人の男も好物なのです。

 素敵なカカサクちゃん書きの肴さんに捧げます。

初出 20140831
改訂 20150301

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