覚悟はしていたことだった。アカデミーのくのいちクラスで何度も教わったことだから。
敵に捕まったくのいちが無事であることは奇跡なのだと。
そして被害に合った場合を常に想定しろと。
朝目覚めて鏡の中の自分に言い聞かせてにっこりと笑う。
あの出来事に遭う前と変わらない笑顔。
ほら、やっぱり、大丈夫。
ご飯だって食べられるし、知らない男の人とだって普通に話せる。
ほら、やっぱり大丈夫。
「サクラ、顔色が悪いよ」
師匠は優しい。
でも、今の私はその優しさに必要以上の、今まで以上の優しさがあるんじゃないかと邪推するようになってしまった。
「大丈夫ですよ、普通です」
極めてにこやかに口角を上げて対応する。
7班で過ごした時間よりもずっと長く、同じ時間を共有しているこの人にその場しのぎの嘘は通用しない。
だから心から笑わないといけない。
本当に私には時間がないのだから。
ナルトと約束した、サスケくんを今度こそ一緒に里に連れ戻すのだと。
ナルトが修行からいつ帰って来てもいいように私はもっと強くならないといけないのだから。
だから立ち止まることなんてしてはいけない。
「師匠、手合わせをお願いします」
鏡に映る今日の私もいつもと変わらない笑顔だ。
あの日の出来事を夢に見ることもないし、被害者が経験すると言われるフラッシュバックだって一度も起こってない。
私にはやらなければいけないことが沢山あるのだから。
誰にも何にも私の邪魔なんてさせない。
もう一度鏡の向こう側の自分に笑いかける。
ほら、やっぱり大丈夫。
その一筋の印が、自分に向かって近づいて来るような感覚に襲われた。
検査薬には青い線がうっすらだが確かに一本入っている。
ニンシン?
にんしん。
妊娠!
真っ暗になった目の前を同じ言葉がいくつもいくつも駆け巡っていく。
助け出されてすぐの処置で調べたあの時、確かに妊娠はしていなかったはずなのに。
途端にこみ上げてきたものを便器の中に吐き出した。
お昼に食べた定食が出て行った後もなお胃液が食道を焼くようにせり上がる。
何もかも全部、私の中にある異物全てを吐き出してくれたらいいのに。
徐々に明るさを取り戻した視界の中、私の右手は下腹の上に置かれている。
怖い。
私の心なんて置き去りにして、私の本能は母親として働き始めていた。
怖い。
早くこの子を殺さないと。
そう考えた自分が怖くなった。
そう考えたんだとみんなに知られたらどうしよう。
怖い。
遠くで蝉の大合唱が聞こえる。気がつくと綱手様が私の顔を覗き込んでいた。
その眼には大粒の涙が浮かんでいる。
この人が泣くのを初めて見たな。
「サクラ、私を恨んでくれていいんだよ」
綱手様は私の頭を撫でながらすごく小さな細い声で言った。
私の髪は汗でべたべたなのに、どうしてこんなにも優しく撫でてくれるのだろう。
私は、私の右手が布団の上に置かれているのに気付いた。
そして、あの子がいなくなっているのだと気付いた。
綱手様がどうしてその言葉を選んだのかということに気付いた。
そして、ほっとした。
「そんなこと、できません」
私の声帯から漏れ出た私の声は、私が考える以上にはっきりと大きく室内に響く。
ほっとした自分を悟られるんじゃないかと怖くなった。
人間なんて理性という薄皮をめくれば残りの大部分は獣だ。
あれは男なんかじゃない、ただの獣だったんだ。
襲われたら自分を守る、私は当然のことをしただけだ。
こんなことなんかで傷つきなんかしない。
私の心は弱くなんかない。
だって私も獣なんだから。
ほら、やっぱり大丈夫なんかじゃかった。
それは夢のようにうつくしいしずかな朝
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