遠くで蝉の大合唱が聞こえる。目を覚ますと綱手がこちらの顔を覗き込んでいるのが分かった。
その眼には大粒の涙が浮かんでいる。この人が泣くのを初めて見たな、とサクラは覚醒しきれない頭でぼんやりと考える。
綱手は汗をかいたサクラの髪を優しく撫でながら言った。
「サクラ、私を恨んでくれていいんだよ」
「そんなこと、できません」
自分の明瞭な声でサクラは再び目が覚めた。
今サクラが見ている天井は夏の夕暮れが差し込む病院のそれではなく、暗い自分の部屋のだ。
吐く息が白く染まっているのを見て夢であったことを思い知る。冷え切った指先で額の汗を拭う。
久しぶりにあの夢を見た。ここのところ規則正しい生活をすることによって十分な睡眠時間を確保できてしまったためだろう。
まだ夜明けまでほど遠いがもう眠れない。
夢の続きはもう見たくなかった。
それは夢のようにうつくしいしずかな朝
現在サクラは病院勤務から外され毎日アカデミーの別棟の一つに通っている。
ナルトも退院し、奇しくも下忍時代の4人でまた任務をしている。
正確には3人と1人、と言った方が正しいかもしれない。
サクラ、ナルト、カカシの3人はサスケが抜け忍として活動していた間に得た情報を引き出す役目を任されていた。
里はサスケからどれだけ有益な情報を引き出せるかで里への復帰を判断することにしたようだ。
サスケが口を閉ざさぬよう、下忍時代に一緒に活動して信頼関係のあるであろう3人を聴取役にしたのはきっと綱手だろう。
綱手は何だかんだ言ってナルトとサクラには甘いようだ。
サスケが里を抜けた後、ナルトは自来也と一緒に里を離れ、サクラは綱手に師事して医療忍者としての道へ進んだため、
7班は事実上解体された形になり、こうして一堂に会したのは本当に久しぶりのことだった。
窓がなく狭い聴取室にはまだ誰もいなかった。当然だ、集合時間までまだ優に2時間もある。
聴取棟管理当番の中忍にも聴取室の鍵を受け取る時に早すぎるとびっくりされたが、
家にいると夢の残滓がいつまでも肌に纏わりつくような気がしてサクラは家にいたくなかった。
部屋備え付けの暖房機器に火を入れて、机の上に今までの聴取を筆記した巻物を机に広げる。
少しずつ報告書に起こしておかないと聴取が完了した時にすぐに提出できない。
巻物の印を残していたところから目を通し始めて3人が来るのを待つことにした。
「お前まで寝坊するようになったとはな」
「しょうがねえだろ。俺だってまだ100パー本調子じゃねえんだから!
大丈夫、カカシ先生はまだ来てないはず」
男2人が早足で朝の廊下を駆けて行く。
地下牢に囚われているサスケの聴取室までの毎日の送迎役をしているのはナルトだ。
取調室の扉を勢いよく開けると室内はここ数日とは違い既に暖気が充満している。
カカシの姿は2人の想像通りそこにはなく、サクラが机に突っ伏して寝ていた。
2人は息を潜めてそろそろと室内に入って扉を閉めた。
サスケは目線で「起こすか?」とナルトに訴えたが、
「どうせもうすぐカカシ先生も来るだろうからこのまま寝かせとこうぜ」とサクラの対面に腰を下ろした。
ナルトに倣い、サスケもその隣に座る。
「サクラちゃん、基本は病院の救急センターで働いてんだけどさ、それ以外にも普通に里外の任務に出たり、
シズネの姉ちゃんの研究手伝ったりとか休みなく働いてるから疲れてるんだろうな」
ナルトの声音は小さいせいもあるかもしれないが常よりも優しく聞こえる。
サスケが知らないナルトのこと、サクラのこと、里のことを、ナルトは地下牢と聴取室との往復の間でまるで独り言を漏らすようにサスケにぽつぽつと教えている、
その優しさがサスケにはありがたかった。
また、サクラはあの時のことなどまるで何もなかったかのようにサスケに相対した。
強引に唇を奪ったあの時よりもサクラの表情は柔らかくなっており、サスケに対してもきちんと視点を合わせて微笑みかける。
その笑みはナルトに見せられた写真のそれとも異なり、かつて下忍として行動していた頃の懐かしいものだった。
彼女の見せるいくつもの表情にサスケは戸惑っていた。
軽く汗ばむくらいに温まっている室内にも関わらず、目の前にある瞳を閉じたサクラの顔色は凍りついているかのように白い。
整えられた眉毛が僅かに眉間に寄せられると、彼女の緑色の瞳がゆっくりと開いた。
「あ、起きた」
顔を上げたサクラの視線は焦点が定まっておらず、机の上に無造作に置かれた彼女の腕の辺りをぼんやりと見ている。
浅く呼吸を繰り返す彼女の顔色は青みがかっており、何かしらの異常がサクラに起こっていることを2人に知らせた。
「サクラちゃん?大丈夫?」
ナルトが机の上に投げ出された彼女の手を握ろうとしたその時、
「いやっ」
短く甲高い拒絶の声とナルトの手を叩く乾いた音が室内に響く。
サクラは自分の上げた声で覚醒したようで、驚いた2人とは目線を合わせず立ち上がった。
「ごめん、寝ぼけてたみたい。顔洗ってくる」
疲弊しきった彼女の様子にナルトも立ち上がる。
「俺も一緒に行くってばよ」
「大丈夫。あんたはここにいなきゃ、誰がサスケくんを見ておくの?」
発言の気丈さとは裏腹に彼女の足取りは覚束ない。
サクラの震える手がドアノブにかかろうとしたその時、扉は開かれた。
「カカシせんせい」
現れた男の腕の中に飛び込むサクラも、飛び込んだ彼女の背中に回される男の腕も自然だった。
「サクラ、大丈夫だよ」
その空気にサスケの胸がざわつく。
「ちょっとサクラの様子見とくからもう少し待ってて」
カカシはサクラを促して、来た時と同じように退出する。
残されたナルトとサスケの2人は視線も言葉も交わすことなく、再び扉が開かれるのを待っていた。
10分ほどして開かれた扉の先にいたのは2人が待ち望んでいた姿ではなく、現れたのは聴取棟の管理当番の中忍だった。
カカシが今日の中止を決めたと2人に知らせるとそそくさと姿を消した。
ナルトは立ち上がり暖房機器の電源を落とす。
「なあ」
「何だってばよ?」
「サクラに何があった?」
ナルトは振り向いてサスケをまっすぐに見据える。
「俺からは言えない」
苛立ちを覚えたサスケはナルトに詰め寄ろうと歩を進める。
「俺からは言えないんだ」
温まっていた部屋は扉の隙間からの冷気で早くも冷え始めていた。