細かい霧雨がさあさあと降る音、ページをめくる音、そして耳に馴染んだ声。紡がれるのは遠い異国の物語だ。



 自宅待機を言い渡されたのは7班のメンバーで任務を終えた翌日だった。
報告書作成の為アカデミーに集まる予定だったが目覚めた時は完全な真っ暗闇だった。
断続的に見えなくなったり、うまく焦点を合わせられず形を捉えられないことは今まで何度かあったが、
光を全く感じなかったのはこの日が初めてで、いつかこの日が来るだろうと覚悟はして色々と準備はしていたつもりだ。
 だが考えていた以上に、見えない衝撃は大きく、ベッドから起き上がったまま俺はしばらく動けずにいた。
どれぐらいそうしていたかはっきりと覚えていない。
心配して迎えに来たナルトとサクラに伴われ、アカデミーの火影のところに赴き、それから病院で詳細な検査を受けた。
 うちは一族は里に対して血継限界の詳細な情報を開示していなかった為、病院には前例がなく、一度の検査では原因を判ずることもできなかった。
眼球自体に負荷を掛けているのか、それとも視神経と脳の間での神経伝達に何らかの阻害が生じているのか、それとも全く別の原因か。
だがひとつはっきりしているのは、写輪眼の使い過ぎということだった。



「うちはさん、我々はこれで失礼します」

 声がする方に顔を向ける。自宅待機を言い渡された翌日から、里からの斡旋で俺は老夫婦の世話になっていた。
2人は毎朝10時に来て夕方の5時までの間、通いで来て炊事や掃除、洗濯など身の回りの世話をしてくれている。
夫婦の訪問があることで俺は時間の流れを捉えることができ、また2人は必要以上に話すこともなく黙々と働いてくれた為、最初は里の斡旋を断ったが、今は正直感謝していた。

「今日は春野先生がお見えになると言ってましたので、夕食は余分に作ってありますから良かったらおふたりで召し上がってください」
「ありがとうございます」

 光の中に2つの曖昧な輪郭が浮かんでいる程度でしか認識できず、もしかしたら実際は見当はずれなところに声をかけているのかもしれない。
真っ暗闇だったのは最初の数日だけで、この頃は日によっては正確な形は捉えることは出来なくても色を感じたりすることも出来るようになったので一過性のものかもしれないと楽天的に考えるようになっていた。
眼が見えないだけで他は全くの健康体なのだ。今は回復しているように見えるが明日にはまた闇の中にいるかもしれない。
そう考えるとやることは必然と決まり、視覚以外の感覚器官を研ぎ澄ます訓練と、身体バランスを向上する為に体幹を鍛えること、この2つにほとんどの時間を費やしていた。


 夫婦と入れ替わりでサクラが来るのも翌日から途切れることなく続いている。別に男女の関係という訳ではない、サクラは俺に本を読み聞かせに来ていた。
最初は任務報告書が始まりだった。任務報告書は代表して一人が作成すれば良いが、提出前に任務参加者全員の署名捺印がいる。
里の上層部は提出された報告書を基に忍一人ひとりの報酬を決める。その為、報告書に虚偽があってはいけないので全員の確認が必要になるのだ。
最後に俺が参加した任務の報告書作成担当がサクラで、完成したそれを読めない俺の為に読み上げた。少し高い声だが、柔らかく自然と俺の耳に入り込んでくる。
目が見えなくてもこうして情報を得ることはできるのだ、考えてみれば当然のことだがこの時の俺はその事実に明らかに昂揚していたんだと思う。

「悪かったな」
「ううん、私は全然」
「なあ迷惑ついでにもうひとつ頼まれてくれるか?」
「もう、水くさいなあ!同じ7班のメンバーじゃない」
「テーブルの上にある情勢報告書を読んで欲しい」
「サスケくんってほんとうにまじめだね」

 サクラは大きなため息をつき、呆れながらも立ち上がってテーブルに行く。困った目だが口元は微笑んでいる、自然と脳裏にその表情が浮かんだ。


 最初の頃は新聞や情勢報告書、術に関する研究書だった。仕事帰りに来る時もあれば、休みの日は朝から来る時もあった。
ある日、ナルトとカカシと4人で夕食をうちで囲むことになり、サクラは集合の少し前に来て俺の為に新聞を読んだ。
だが読み終わった後も2人は来なかった。サクラは俺に退屈をさせまいと近況などを報告していたが話題のタネも尽きたようでやがて静寂になった。

 ぱらり―――――
 ぱらり―――――

と一定のリズムで紙を捲る音がする。

「何を読んでる?」
「外国の絵本だよ」
「病院で読み聞かせでもしてんのか?」

 サクラは任務に出ない時は病院で医師として働いている。

「ううん、言葉を勉強してるの。ずっと西の国の言葉。その国は忍の国々よりもずっと医療技術が発達してるのね。
医療専門書とかすんごく難しくて辞書片手に読んでたんだけどなかなか進まなくて。
それをシズネ先輩に相談したら絵本から始めればいいって教えてくれたの。
絵本って子供に言葉を覚えさせる為に読み聞かせするじゃない、だから本当に基本の文法から勉強できるからいいんだって。
でもサスケくんの案もいいね!今度小児科手伝いに行った時にするよ」

 サクラは嬉しそうに話した後、また視線を絵本に転じたようだった。

「―――――お前がいやじゃなかったら読んでくれないか?」
「いいけど、本当に子供向けのものだよ」
「構わない」
「じゃあ、病院で本番できるようにここで練習させて貰うね!」

 そういうとサクラは本当に子供に読み聞かせをするように抑揚をつけて話し始めた。
それが始まりだった。



「今日は何だ?」
「今日はね、色々と持って来たんだよ」

 タイトルを読み上げる声と同時にテーブルの上に数冊の本を置く音が聴こえる。
聴覚、嗅覚、触角、味覚と健全に働いているし以前のそれらよりも勝るようになっていたが、それでも視覚から得られる情報量に勝るものはない。
見えなくなる前はこんなにも本を読むということはなかったのに、失ってからはすっかり渇望するようになっていた。
 サクラも最初は絵本だったのが、子供向けの冒険活劇やおとぎ話となり、今では普通の物語を翻訳しながら読めるようになっていた。
彼女の言葉は聞き取りやすく、余韻や間の取り方も絶妙な為、俺の頭の中では行ったことのない異国の情景が容易に浮かんでくる。
そしてかなりの熱を込めて、時には目には見えずとも身振りや手振りも交えて話す。
美しいが故に呪いを掛けられた王女の話、星座になぞらえた神話、年老いた王と三人の王女の話、滑稽な騎士と従者の旅の話、革命に翻弄されながらも必死に生き抜いた人々の話。
物語の世界に入り込んで涙ながらに語ったりもした。その涙が邪魔をして物語が進まないこともしばしばあったがそれも楽しかった。

「千夜一夜物語」
「うん、いいよ。これね、いろんな物語の詰め合わせなの。どれも面白いけど一日じゃ読めないのが多いけどそれでも大丈夫?」

 サクラの質問の意図が分からなかった。今では一冊の物語を読むのに幾日もかけるようになったのに何故あえて訊くのだろうか。

「かまわないがどうかしたのか?」
「別に…じゃあ始めるね。
商人と鬼神との物語―――――」

 すっかり耳に馴染んだ彼女の声が、俺を見知らぬ砂漠の地へと連れて行った。



 昨晩からずっと雨が降りしきっている。夜半から朝にかけては大粒の雨だったが今は細かい霧雨が世界をしとどに濡らしていた。
6月になったのに雨のせいか今日は空気が冷え込んでいた。今日もサクラは老夫婦と入れ替わりでやって来た。

「そういえば昨日、病院だったでしょ?」

 サクラがガスコンロにやかんをかけて火を点ける。これもすっかり日常となっていた。スムーズに話せるようにと彼女は毎回飲み物を用意する。

「ああ、原因が分かったそうだ。明日から一週間程度入院することになった」

 居間には夫婦が用意してくれた入院中に必要な荷物が置かれている。彼女がそちらに視線を移したのを気配で察した。

「良かった、前と同じように見えるようになればいいね」

 外の雨の音だけが静かに鼓膜を揺らしている。お互いの言いたいことはきっと同じだろう。サクラの方が口を開いた。
「じゃあ、今日で読むのが最後になるね」いつもよりずっと明るい彼女の声。

「ずっと悪かったな」
「ううん、言葉の勉強になったし、入院してる子供達もすごく喜んでくれてるし、私自身本を読むのがすごく好きになったから私の方こそ感謝してるよ」

また静寂になった。再びの雨音、雨脚が少し強くなっているのが分かる。

「ちょうど物語のキリも良かったし、って言ってもまだまだ色んな話が続くみたいなんだけどね。
そういえば昨日本屋さんで翻訳版を見つけたんだ、サスケくんも本好きになったでしょ?
目が見えるようになったら買って続きを読んでもいいかもね」
「ああ、そうする」

 読み聞かせをする時、決まって彼女は定位置に落ち着いていた。同じソファの端と端。人間一人分のスペースが俺たちの間にはあった。
いつもと同じように腰を落ち着け、サクラが読み終えると、玄関まで送りに行った。しゃがみこんでサンダルを履くのを気配で感じる、これもいつも通りだ。
立ち上がると「じゃあまたね」とすぐに気配が消えて行くが今日はそうじゃなかった。
サクラが振り向いてこちらを見ているのは分かったがどんな表情をしているのか分かるはずもない。
目が見えればどんな顔をしているのか分かるのに、目が見えないことに絶望している自分に驚いた。
彼女が何を訴えたいかなんて分からなかったし、俺自身何かを彼女に訴えたかったがそれが何かも分からなかった。

「サ―――――」
「入院頑張ってね、じゃあね」

 引き戸が開くと同時に湿り気を帯びた冷たい夜気と盛大な雨音が玄関に侵入してきたが、戸はすぐに閉められ扉一枚隔たれた雨音が彼女の気配を遠くへとさらっていった。





 初日に手術(と言っても驚くほど呆気ないものだったが)を済ませ、残りの6日間は病院で過ごした。
自宅待機を言い渡されて半年、暗闇で過ごす事が多かった為、いきなり太陽の下に放り出すのは光の刺激が強すぎる為に出来ないそうだ。
遮光のカーテンが引かれ、目には包帯を幾重にも巻かれ人口の光すら入らないようにされていた。
少しずつその包帯が薄くなり、カーテンは開けられ、俺の目は再び世界を捉えることが出来るようになった。
 ナルトとカカシは初日に見舞いに来ていたが、うちはの屋敷にほぼ日参していたサクラは一度も見舞いに来なかった。
退院の為、受付で請求を済ませ、ついでに医局のサクラを呼び出す。

「春野先生なら一週間ほど前から任務で里を離れられてますよ」

 最後に別れた夜、彼女が言いたかったのはこのことか。だがいつもの任務なら何故それを言わなかったのだろう。
病院から家に帰る道すがら本屋の前を通り過ぎる。が、彼女の言葉を思い出し、今来た道を戻って本屋の中の海外文学コーナーへと足を向ける。
目指すタイトルはすぐに見つかった。千夜一夜物語。
全13巻、サクラが長いと言っていたのはこのことだったからか、とりあえず一巻だけを手に取り本屋を後にした。





「こうしてお姫様は呪いを解いてくれた王子様と末長く幸せに暮らしました、おしまい!」

 真っ赤に染まったケヤキの下で、サクラが子供達を相手に話しをしていた。薄桃色の髪が最後に見た時よりも随分長くなっている。
立ち上がろうとする彼女を、その周りで囲んでいる子供たちが腕を引っ張って別の物語をせがんでいる。

「だぁめだよ、先生は仕事がまだ残ってるから。また寝る前に話してあげる」

 子供たちの方を向いたまま後ろ向きに歩いて来たので、思った通りぶつかってきた。

「ご、ごめんなさい」
「半年振りだな」

 腕の中に受け止めたサクラはその明るい緑色の目をこれでもかと見開いて驚いている。


 サクラは内戦が終わったある国の復興援助の先発隊に医療忍者として参加していた。
クーデターを起こした民兵独立団の勝利は確定していたものの、末端の国軍と民兵の小競り合いは続いていて危険な状態だったらしい。
国の中央部から逃げてきた女子供のキャンプ地としてこの村は機能し始めていたが、国軍が物資の強奪や労働力の確保をしようと襲撃するのが日常茶飯事だったとのことだ。
キャンプ地の運営と、襲撃に来た国軍との戦闘、それが先発隊の任務だった。
最初は少ない人数だったが木の葉の忍が護衛をしていると聞いた民間人の数は日に日に膨らみ先発隊だけでは手が負えなくなり、二次部隊、三次部隊と木の葉の忍も増え物資の継続補給も続いていた。
今は調停も済み、避難してきた民間人はそれぞれの土地に帰り始めている。俺は最後の物資補給部隊に志願してここに来ていた。

「今ここに残ってる子供達は戦火の中で家族とはぐれてしまった子がほとんどなの。
中には目の前でお母さんや兄弟を亡くしてしまった子もいるんだけどね」

 必要な医療道具やガーゼなどが揃っているかリストと照合しながらサクラは言葉を紡いだ。
聞き慣れた彼女の声が出るところ、唇の動きを俺はじっと見ていた。

「ここに来たばかりの時は不安を訴えて眠れない人だらけだった。依存性が高いのと二次性徴に影響が出ちゃうから子供に眠剤は処方できなくて。
夜になると辛い経験を思い出してしまうから、だからサスケくんに話してたおとぎ話がすごく役に立ったんだ。みんなで輪になって物語を話すの。
最初は私だけだったんだけど、その内避難してきた若いお母さんとか、弟を連れた女の子、おばあちゃんとか交代で話してくれるようになった。
一緒になって驚いたり笑ったり、手作りの楽器に合わせて踊ったりもしたの、すごいでしょ?
そうしたらいつの間にかみんな眠れるようになってた。今でも時々怖い夢を見て眠れないって訴える子もいるけど次の日にはきちんとお昼寝するの。
私の仕事は、首都に出来る救護院にあの子たちを送ったらそれでおしまい」

 薬品棚に道具を全てしまいこんだ後、彼女は振り向いて笑った。少し痩せてしまっているが表情は以前よりも明るく自信に充ち溢れている。


 俺はウエストポーチから一冊の本を出して彼女に渡した。

「うわ、懐かしい。これ、最後にサスケくんに話した物語だよね」
「千夜一夜物語、お前最初の話を読まなかったのは何でだ?」
「だって生々しいじゃない。女の不貞を嘆く兄弟の話しだよ」
「それは導入部分だろ。俺はあの時の状況が兄王シャハリヤールとシェヘラザードに似てるからだと思ってた」
「確かに状況は似てるね、でも私はシェヘラザードみたいに清くも美しくもないわ」

 サクラは目を伏せてぱらぱらとページを捲っていたが、本を閉じて返そうと差し出す。
俺は本を無視して差し出して来た彼女の右手首を掴む。サクラは驚いて手を引こうとしたがそれを許すつもりは毛頭なかった。
肩をびくりと震わせて、伏せていた顔を上げる。一瞬迷った表情を浮かべたが、声を震わせて小さくぽつりぽつりと言葉を選び始めた。

「最初はね、サスケくんの役に立てて嬉しかった、本当にそれだけだったの。
サスケくんが私の声に耳を傾けてくれてるんだ、と思うようになったらもうダメだった。
他の人にこの役を譲りたくない、シェヘラザードみたいにずっと物語を話していたい、いつまでもサスケくんの目が見えなければいいのにって願うようになってた。
大好きな人が苦しんでるのにその状況を願い続けてるなんて本当にあさましい人間だって自分の事が大嫌いになった。
だから里を出たの」

 俺を見つめる瞳から透明な雫がぽとぽとと零れ出す。

「入院してる間、俺はお前が来るのを待ち望んでいた。『今日が最後』だって別れ際お前に言われたのに心のどこかで期待していた。
まるで話しの続きをせがむシャハリヤールみたいにだ」


「だからまた、物語を聞かせてくれ」

 俺は掴んだ腕を引っ張りサクラの体をすっぽりと俺の腕の中に収めた。
人間ひとり分の距離を埋めるのはこんなにも簡単だったんだな。
サクラの腕がそろそろと俺の腰の辺りに回されたのが分かって俺は大きく息を吐いた。





後日談   ふたり

今日は朗読の日です。
そしてロマンスの日でもあるそうです。

先日深夜にケイト・ウィンスレット主演の「愛を読むひと」がやっていて、朗読って素晴らしいな、と今回の作品のモチーフにしました。
映画の中では性行為の前後に朗読を行っていたのですが、朗読って行為だけでもすごくセクシーだなあと。
まあ全然生かしきれてないんですけどね(笑)
とりあえず「今日は何の日?」をシリーズに出来そうです。

初出 20140619
改訂 20150227

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